スタッフ紹介

代表取締役/フォトグラファー 堤あこ

こんにちは!株式会社堤写真館の3代目、代表取締役、堤あこです。

わたしのように数十年生きている妖怪?(笑)になってくると、誰しもたくさんのいいこと、そして辛かったことがあります。なんだか、プロフィールも永くなりがち。
まずは、わたしのすごく若い時のお話をさせてくださいね!

熊本の城下町下通の堤写真館で生まれ育ちました。

小学校に上がる迄、下通の堤写真館に住んでいました。
その頃、街の商店はどこもお店の後が自宅で家族が住んでいました。下通は、真ん中が自動車道で各店の前に軒がついている、今もよく見られる地方の商店街といった感じでした。お店の前で、ステテコのおじさん達が将棋をしていました。今思えば、アジア!って感じで、風情がありました。
堤写真館では、キューちゃんという九官鳥を飼っていて、黄色いくちばしで「いらっしゃいませ」「ありがとうございます。」と叫んで、お客様を迎えていました。

「下通が繋がって、ポレエルがもっと近くなるよ!」とある日、大人達に言われました。
「おもちゃのポレエル」は堤写真館の向かい側にあったわたしの大好きな遊び場。熊本で一番大きな7F建てのおもちゃ屋さんでした。おしゃれで夢があったポレエル。大人も遊べるような贅沢なおもちゃもたくさんありました。おもちゃを買わなくても毎日楽しかったので、ちっとも欲しくありませんでした。子供だったわたしには「ポレエルがこっちに押し寄せて引っ越してくるのかなあ・・」とよくわからなかったけど、大人達が興奮して騒いでいたのを覚えています。
やがて、下通に屋根ができて歩行者天国(古い言葉ね!)となり、自動車は真ん中を通らなくなりました。そして、大人達が言っていた「近くなる」の意味がやっとわかりました。下通、太洋デパート、鶴屋デパート、本当に街は人と人がぶつかるくらい、人であふれ返るようになりました。
下通がつながって、そこで夜は、雨の日もバドミントンや羽子板をすることができましたよ!

祖父母、父母、妹、叔父たち、社員さん8名と
自由が丘の名門「藤原写真館」を訪れたときの1枚

写真館に生まれた長女

写真館の仕事は、①撮影をしたら、②フィルムを現像して、③修整、④引き伸ばし機というもので印画紙に焼き付けをして、⑤プリントを現像、洗って乾かして⑥反ったのを伸ばして⑦またプリントを修整して・・⑧台紙に貼る とにかく、この間にもたくさんの細かい工程がありました。

祖父母、父母、お店のお弟子さんたち、暑い日も寒い日も、朝早くから夜遅く迄頑張っていました。
小学校からマンションに引っ越しましたが、父母とマンションに帰るのは、夜中12時くらいだったのかもしれません。いつも妹とタクシーの中で寝ていました。
朝、起きるのがとても苦手で、学校でもぼーっとしていました。

昔は、家の跡取りは男性と相場が決まっていたのですが、うちには男子が生まれませんでした。
家族にも社員さんたちにも可愛がって頂きましたけど、子供の頃から、なんとなく、「大人になったらこの写真館をやらないといけない」というプレッシャーをじわっと感じていました。それは、両親から言われたというより、大人達の会話を聴いていて感じたことかもしれません。
小さな子供の頃から、わたしには深刻な問題で、未来の可能性を阻まれたようで、いつも大人に隠れて泣いていました。
跡取り問題に関する悩みは、わたしにとって、大人になる度に深刻になってしまい、何をするにしても頭の片隅に存在しました。

ホストファミリーとの縁を結んでくれた高校生の時の写真。熊本城で父が撮影しました。この当時は、ソフトフォーカスレンズが流行していました。

17歳、カリフォルニアへ!

「あーあ、どっかいっちゃいたい。しかも帰って来たくない!」と考えたわたしは、アメリカに留学することにしました。目的は、うっとうしい家&親から離れること。
今思えば浅はかと思うのですが、距離さえ離れれば自由になれると考えました。
悩みなどは場所を変えたからと言って変わらないというのに・・当時はそんなことさえも知りません。
しかも、留学なんて両親の援助無くしては当時の高校生に出来なかったことなのに・・。

父が可愛く?写してくれた二の丸公園での一枚の写真。
高校生の初々しいわたしが、ピンクのチェックのシャツを着て、木漏れ日の中でにっこりと笑っています。その写真のおかげですぐにホームステイ先が決まりました。
むこうのお家からも、自己紹介の写真や手紙が届きました。
“笑顔がかわいい、あなたに会うのを楽しみにしています。Judi & Bob”

出発の日、いっしょに成田を飛び立った高校生達はサンフランシスコの空港に着くと、そこからアメリカ全土に広がるそれぞれの留学先に別れて旅立っていきました。サンフランシスコからサンノゼまで飛行機に、ひとり。・・家が嫌だから飛び出したものの不安がいっぱいでした。
「無理しないで、いつでも帰って来なさい。」という母の言葉をお守りみたいに思い、なんとか安心しようとしました。

わたしが、着いた町はサンタ・クルーズ郡、サン・ロレンゾ・バレー。
サンタ・クルーズはモントレー湾の北側にある、サーフィンでも有名な町です。
「これから1年間この人達がわたしの両親?」
初めて会うホームステイ先の夫婦、JudiとBobは、思った以上にデカく、思った以上に「外人」でした。
Judiは綺麗な人だなあ・・と思ったけど、Bobは赤鬼みたい!二人とも生粋のカリフォルニアンでした。

彼らの家に上がるとき、わたしは靴を脱いでしまいました。それには、2人ともビックリして「なんで脱ぐの!!?」と目を丸くしていました。わたしは、靴を脱いでしまった自分にビックリしました!「そうか、ここは日本ではないんだ!」・・・習慣ってすごいなあ。

Bobは消防士、Judiは学校の先生。自宅にはプールがあって2人の肌は日本人のわたしより、こんがりと陽に焼けていました。エクササイズに通って、朝はたっぷりのフルーツにヨーグルトのサラダ、夜は肉などのタンパク質とサラダ・・炭水化物をほとんど食べない・・(30年以上前なのに!ジョブズのようなフルータリアンみたいに!)そんな食生活。「ごはんたべたーい!」と思いました。

サン・ロレンゾ・バレー・ハイスクールの卒業式にて

ハイスクール・ライフ

最初は、中学校、高校、熊本で半年通った英会話スクールでの学びもほとんど役に立たないくらい、みんなの言っていることも授業もわかりませんでした。
まわりに日本人の生徒は1人も居なくて、寂しい日々を送り、日本を飛び出したものの、学校に行くのが憂鬱でした。毎日、家からレッドウッドの林の道をぬけて、Judiがつくってくれたピーナツバター&ジェリーサンドイッチとかターキーのサンドイッチを持って学校に行きました。

青春を謳歌している高校生たちは、自分から話かけても来ない子供のように見える日本人に、「大丈夫?どうしたの?」などと話しかけるヒマも余裕もありませんし、「寂しそう、大丈夫かな?」などと察することもありません。
どんな顔をしていてもどんな人種でも「英語をはなせるのが当たり前」。
自分のことは自分でやる。自分から下手でも通じなくても人に話しをしていく。そうしないと友達も出来ないのです。
「自分1人で居るのは自分がそうしたいからだ。」
つまり、まわりがやってくれない、かまってくれない、やさしくしてくれない...ということでは無いのです。

まわりの高校生は、とても大人っぽく見えました。わたしにとっては、25歳から35歳くらいに見ました。綺麗にお化粧をしてセクシーでした。ハリウッドの女優さんみたいでした。
いろいろな髪の色、肌の色、目の色。自然体な、人目を気にしすぎない仕草や振る舞い・・・校長先生が通っても、担任が通っても、学校の廊下でディープなチューをしていたりすること自体、わたしには大ショックでしたし、職員室の横に生徒の喫煙所があるのも衝撃的でした。もちろんタバコは21歳にならないと売ってもらえないはずですが、「隠れて吸うよりは、職員室の横で吸ってくれ!」ということらしいです。

とにかく、日々、驚いてばかり...そしてひとりぼっち...
学校から、ひとりで帰る林の中の道。
家に近くなり、口笛を吹くと、ボロ雑巾のようなミックス犬のAsa(エイサ)が家から走って来て出迎えてくれました。

しかし!このままでは何もしないで1年が終わってしまうし、
友達も出来ない日々を知らない国でひとりぼっちで耐え忍ばなくてはならない!
太陽が燦々と輝いて素晴らしい青空・・・「日本晴れ」と雲1つない天気を日本ではそう呼ぶけれど、カリフォルニアは毎日「日本晴れ」。わたしの心の雲はより重くなって来ました。

1ヶ月くらい過ぎた頃だったかもしれません。
わたしは勇気を振り絞り、英語のクラスで一緒だった、身体が大きくてだれよりも青い瞳が綺麗な、茶色のカーリーヘアのZiziという人気者の女の子に声をかけました。
「ねえ、お昼、いっしょに食べない?」
Ziziは変わった名前です。
すると、“もちろんよ!sure! Come with me! “
こうしてわたしは、カフェテリアデビューを果たしました。
それから、Ziziとそのまわりの友達といっしょにお昼ご飯を食べたり、
家に泊まりにいったりするようになりました。
また、他の子たちにも
「うちに泊まりに来てよ!」と言われて、よく泊まりにいくようになりました。
“AKO!”
という名前は、響きが珍しく呼ぶのが楽しいらしい。
みんなわたしの名前をたくさん呼んでくれるようになり、お寿司のウニが好きな友達が“AKO! My UNI”という歌を作り、合唱していました。
「アコ、ボクのウニ。僕はアコとウニが同じくらい好き♪アコもまた、僕たちが大好き」という、まったくどうでもいい歌詞でしたが、今もそのメロディーが蘇ります。
今でも、数年置きに会えば、お互いに何とも言えない気持ちになり泣いて抱き合う仲です。

2014年に撮影したホームステイ先のパパ、ボブとママ、ジュディ。1983年から今もおつきあいが続いています。

日本語が話せない!

当時は電話代も高かったため、家に一度も電話しなかったのですが、
さすがに帰国する前にJudiが
「ねえ、お家に電話したらどう?」
と言いました。
ドキドキしながら母に電話をかけました。
「もしもし、あこちゃんね?」と母が言いましたが、
わたしは・・
日本語が・・・・
出て来ません・・・・
“I can`t speak!! Hey Judi! I can`t speak Japanese!!”
「うわあーーっ日本語我が出て来ない!」と叫んで、少し気を取り直してから、
深呼吸をして
やっと
「もしもし、お母さん?」
という言葉が出て来ました。
本当に変な感じの体験だったと思います。

カリフォルニアがわたしの中に育んでくれたもの
  1. ①「出来る」と信じること
  2. ②応援すること
  3. ③人々と出会いフレンドシップを築くことの豊かさ

カリフォルニアでの1年間は、随分昔の体験ですが、
わたしにとても特別なものを与えてくれました。
カリフォルニア人は
いつも誰かが新しいことにチャレンジするとき、友人にも知らない人にも
“Come on! You can do it !”「大丈夫!絶対に出来るから!」
と声をかけます。
自分の友達、子供などに、とても頻繁に
“You are so special”「君はほんとうに特別な存在だからね。」
という肯定的なメッセージを贈ります。

わたしが子供だった頃まで、子供を甘えさせはしても(現在、日本の甘えと甘やかしの文化は見直され必要とされています。)「誉める」、「全面的に応援する」、ということは、家庭でも外でもあまり無かったのが、うちも含め日本の一般家庭だったと思います。
実は、西洋社会でも「誉める」などというのは、近代に始まったことかもしれませんが、そのときのわたしにとってたいへん新鮮なことでした。

元々はたいへんシャイだったわたしですが、
英語が話せるようになったこと、外国の方々との垣根が低くなったことは、わたしの人生の財産となりました。
英語は、今では結構下手になってしまったけれど、若い頃よりも今の方が、心はオープンになって、よりいろいろな国の方々と素の自分でお話が出来るようになったと感じています。
わたしが一番得意なのは「出会うこと」と「友人でありつづけること」ではないかな、と最近思います。

サンタバーバラで、1700ドルで購入したFIAT X19と。4×5ビューカメラを前のトランクに、三脚を後のトランクに積んで、いろいろな所に行きました。
しょっちゅう壊れていたけれど、わたしと一心同体でいてくれた愛車です。
ブルックス・インスティティートの卒業式。
学長のMr.ブルックスと。

フォトグラファーへの第一歩

日本の高校を卒業した後、東京で写真の短大に行き、再度21歳で渡米しました。
サンタ・バーバラというスペイン風の町並みが広がる南カリフォルニアの街にあるBrooks Institute of Photography and Cinematography という写真と映画の専門の学校に入学しました。
家には帰りたくなく、家業から逃れるために行っていましたが、考えてみれば、家業に引き寄せられる運命の構図ですよね(笑)。

この学校は、全員、車を購入しなくてはなりませんでした。何故ならば、4x5インチのフィルムを使う大きなカメラを持つことを全員義務づけられていたからです。
わたしは、なんとか、運転免許を取り、中古の車と学校の掲示板に出ていた中古のカメラを買ってスタートラインに立ちました。
カメラが重いのだけはいつも辟易しました。わたしは東京に居た時から、35ミリのカメラで撮影するのが大好きだったのです。

いつも適当な人生で、ドジでいろいろなことに巻込まれました。
車の窓ガラスを割られて、カメラを盗まれたり、
休暇にデスバレーという砂漠地帯に遊びに行き、ふざけて運転していたので、砂漠で車がゴロゴロと転がって、気がつけば逆さまだったりしました。
学校の試験に遅れそうになって、何だかわからないけどパトカーを止めて送ってもらったこともあります。(今なら思いもつかないアイディア!若いってすごい!)
学校は頑張って卒業し、バチェラーオブアートの学士号を頂くことができました。

学生時代から、わたしのフォトグラファー人生は始まりました。
その後、L・Aに行き、数名のフォトグラファーのもとでインターンとして働きました。楽しくて全ては自由で思いのまま!堤写真館に帰らないといけないということ以外は・・。

東京の学校でわたしがとても尊敬していた先生が
「堤さん、写真というものは、生きているか、死んでいるか、なんだよ。良い、悪い、上手、下手ということではないんだよ。だから、君は生きている写真を撮りなさい。」と話してくれました。
今もわたしに深く影響を与えている大好きな言葉です。

堤写真館の写真は、「生きている写真」でありたいと強く願っています。

家業は嫌いでしたが、写真を撮影するのは結構楽しくて、撮影し出すと「あなたよくそんなに集中出来るね!」と今でも言われることがあります。

東京での3年間

熊本に戻る前に東京の超一流ホテルと言われていた某ホテルの写真室で3年間仕事をしました。
忙しい日は、結婚式が26件有って、頭もこんがらがり死にそうでしたが、外国ボケのわたしには、ちょっと日本に慣れるいい機会だったと今も思っています。
当時、アメリカで流行の写真家だったロバート・メイプルソープ、ハーブ・リッツ、グレッグ・ゴーマンなどに感化されていて、スタジオにゲイの友人を連れて来てヌード写真を撮影したりしました。
先輩は「あこちゃん、いっちゃってるねーー!ここ、◯◯ホテルだよ!」と笑いましたが、わたしは至ってまじめで、本当に作品を作っているのだと思っていました。会社が使っていた有名な大企業の現像所にフィルムを現像に出してこっぴどくしかられました。
(お父さん、ごめんね・・20年以上経ったからカミングアウト)

嫌だ、嫌だと思う割に、
ついに熊本に帰ってしまいました・・
私よりも賢くて用意周到だった妹は、
「おねえちゃん、写真の勉強なんかしたら家に帰らないといけないの判らなかったの?だからあたしは死んでもしなかったのよ。」
とニヤリと笑い、自由に旅立って行きました。
さまよえる若き日々の終わりです。
なにが有ったという訳ではないけれど、自然と覚悟を決めました。
「わたしがやらなくては、やる人が居ない。」から。
大人になっちゃったのかな・・?

結婚式前の「前写し」のあとに、3世代で撮影した1枚です。

ただいま!熊本!ただいま写真館!

戻ってからの堤写真館では、
たくさんのお客様の撮影に関わらせて頂きました。
結婚式の前撮りは、1000組以上は自分で撮影していると思います。
美しい写真を撮影して、お客様に喜んで頂く楽しさややりがいを感じていました。

ウェディングもポートレートも撮影するのが好きでした。
人の顔は本当に面白いと思いました。
モデルの気分で、光で、角度で、表情で・・・全く別の人に見えることが有ります。フォトグラファーによっても、モデルは違う人のようにも写ります。
写真は、「写る人」と「写す人」の共同の作業でもあり、どちらかの影響力が有る場合、関係がイーブンな場合によっても違います。

写っているその人よりもフォトグラファーの性格や癖、思いが写真に写ったりしてしまうことがよくあります。それがフォトグラファーそれぞれの個性。
しかし写真館では、フォトグラファーの個性が写りすぎてしまうよりも出来るだけ「お客様」を素敵に写して差し上げるのが仕事だと思っています。もちろんお店の持つニュアンスやそれぞれのフォトグラファーらしさいうことも加えたい価値ある重要な要素だと思います。

30代前半は、写真の仕事に熱中していたので、ゼラチン&シルバーと呼ばれる銀塩写真のみならず、「プラチナ・プリント」(モノクロ写真の一種。プラチナとパラジュームを使った特殊なプリント)を自分でやってみました。
プラチナの写真はほとんどやっている人が居ない古い技法で、マニアックな世界。当時、「3本の指に入る人に習って5本の指に入るよ。」と言われたくらいレアなものでした。
紙に薬品を塗って、自分で好きなコントラストと色のバランスで印画紙を作ります。全プロセスは、とても毒性が高いのでガスマスクをしてやっていました。(神経質すぎるかも?)このプリントは、印画紙の感度が低いため、明るいところでも現像出来ました。この頃は夜中まで、暗室に入って銀塩写真を、明るい部屋でプラチナ写真を制作していました。
プラチナの写真は、500年間、変退色しないと言われています。
写真に対する追求を一生懸命やっていた懐かしい日々です。
プリントのクオリティーを追求しながら、赤い電球の点いた暗室で過ごした日々です。

全国写真展覧会で内閣総理大臣賞を受賞しました。

そんな中、2002年に全国写真展覧会で内閣総理大臣賞を受賞しました。
「帽子のマリア」という画題で、ロシア人の若き女性を撮影した写真です。
その女性とわたしの見かけは違うけれど、その人を通して、そのときの私と私の考える女性像が写っている気がします。

写真というものは、見る人にフォトグラファーが自分自身をさらけ出しているようなものだと思います。この内閣総理大臣賞はわたしにちょっとだけ自信を与えてくれました。

変わっていく日本の写真サービスとハレの日

父に「いつも綺麗な写真を撮影して、ウィンドーを綺麗な写真で飾っておきなさい。そうすれば、お客様はきっと見捨てないでいてくれる」と言われたことがあります。
しかし、①カメラのデジタル化 ②衣裳・美容・写真をトータルでサービスするスタジオ・貸衣装・呉服店の出現 ③振袖のレンタル業の始まり ⑤子供写真館の存在 
その他にも時代の波は、昔ながらの写真館を大きく飲み込んで行きました。
日本人は呉服も晴れ着も着ることが少なくなりました。お見合いのカタチも変わり、結婚式のカタチも変化していきました。

例えば
戦後、昭和25年〜昭和の終わりまで、堤写真館の前に成人式典当日に300人以上の方が来て頂き、朝から夜迄撮影しても終わらない日々がありました。
平成になり、自店のお客様はもちろんですが、全国チェーンの大手呉服店の下請けとして300名程の成人振袖の前撮りを撮影していた時代もありました。
ある日、その取引先に「写真をタダにしてくれ」と言われました。「お客さんに喜んでもらうために美容師さんにも写真館さんにも泣いてもらっています。」とその大手呉服チェーン(上場企業)の部長は言いました。意地悪そうな顔に見えちゃうんです・・

「ひーーっ!いくらなんでも・・!それは無理!」

断ると、次の日から取引停止になった残念な思い出があります。
そういう取引は、写真の価値、フォトグラファーの心、引いてはお客様に提供する商品とサービスをズタズタにしてしまいます。
このとき、わたしの心はかなりズタズタに引き裂かれました。

けれども、大丈夫。「絶対に、負けない!」
圧倒的に素敵な商品とサービスでお客様に喜んでもらいたいから。

もともと七五三などの衣裳はレンタルしていましたが、
5年程前から、成人式の振袖レンタル、前撮り、式典当日の支度など全てを行うようになりました。
写真を撮影するにあたって、全てをプロデュースして写すことが出来るので、さらに素敵な写真、美容、サービスをお客様に提供出来るようになり、たいへんで手間はかかりますが、うんと楽しくなりました。
衣装や着付けが悪いのに、写真がよく写ることはありません。だから、お客様にもっと素敵なものを!と追求して、衣裳・美容・写真の3つを全てトータルでお任せ頂く写真館になりました。

今思えばこれくらいの試練は、よく有ること。
思い起こせば、お腹の真ん中に丸太をブチ込まれるような衝撃は、この後もたくさんありました。少しぐらいのことでは動じない、可愛くない女になりました。

私たちに新しい一歩を踏み出させてくれたその呉服店の部長さんに心から感謝しています。その人が居なかったらわたしは立ち止まったままだったかも知れません。

2014年には、お客様にご家族の写真を毎年必ず写って頂くように「愛情物語」という会員様のサービスを始めました。後から「写っておけば良かった!」と思っても時間を逆戻りして撮影することは出来ません。写真こそどんなにお金持ちでも後からは買えない大切なものだからです。

「ダイヤモンドみたいなビジョナリーカンパニーにしたい。」

祖父も父も新しいものが好きでした。
1967年 熊本で、一番最初に結婚式の前撮りを始めた堤写真館。
1997年 日本で初めてのロケーションスタジオ「森の写真館」
2000年 ヨーロッパからのステンドグラスを取り寄せてオープンした「聖フランシス森の教会」。日本で写真館が運営する初めての独立型チャペルでした。

15年程前、会社のこれからを思案していたわたしは、1冊の名著に出会いました。
「ビジョナリー・カンパニー」という本です。
写真さえ、まじめにきちんと写して、何処のお店よりも良いものを作れば良い、と考えていた私を開眼させてくれた1冊です。
株式会社堤写真館を、100年を超えてなお輝き続けるビジョナリー・カンパニーにしたいと強く思うようになりました。
「小さくても輝き続けるダイヤモンドのような会社にしよう!」
そのために、生まれ変わり続ける会社にしていきたいと思います。

「職人には経営は出来っこない。」と時々、国内外のエラい人の本に書いてあります。
けれども、わたしは
「写真を写す時に一瞬ですべてを見渡さなくてはいけないこと」
「新しいことにチャレンジするわくわく感」
「あり得ないということを、あり得ることにすること」など、
フォトグラファーの仕事と会社をやっていくことは、とても似ているなあ、と思うことがあります。

毎日新しい方々との出会いがあります。
古い友人を大切に思うような心で
お客様とも永く素敵な関係でありつづけたいと思います。

あんなに嫌だった写真館の跡継ぎ・・・
今は楽しくてやりがいを感じる、わたしの天職となりました。

70年に渡って、私たちを選んでくれたお客様、良い時も悪い時も一緒に乗り越えて堤写真館で働いてくれた皆様それぞれに、そして、いつも平常心で居る主人にとても感謝しています。

世界中の結婚式を撮影したい!結婚式の素晴らしさを広めたい!。

今、私は「世界中の結婚式を撮影して、結婚式の素晴らしさを世の中にもっと広めたい。」と考えています。

今は、結婚も結婚式もしない時代です。
けれども「森の教会」で結婚式を挙げて下さるお客様の喜ぶ姿、そこで結ばれる新郎新婦とご家族やご友人達の大切な関係・・そんな人と人をつなぐ1日は無くしてはいけない大切なものだと感じたからです。
この2年、ベルサイユ、ボルドー、リスボン、トナ(台湾・ルカイ族の村)で撮影をしました。
これから、わたしはもちろんですが、堤写真館のフォトグラファーから、世界中の結婚式を撮影しに行くメンバーを育んで行きたいと思います。

「幸せな人の顔は美しい。」

若い時に大好きだったフランソワーズ・サガンの言葉です。
幸せな美しい顔をもっと世界に増やして行くこと。
それがハレの日をプロデュースするわたしたちの仕事です。

最後迄、読んで下さってありがとうございました。
読んで下さったあなた様に、いつの日かお会いすることを楽しみにしています。

主な受賞歴(2000年以降)

2002年

全国写真展覧会
内閣総理大臣賞

作品タイトル
帽子のマリヤ
フォトグラファー
堤あこ
2002年 全国写真展覧会内閣総理大臣賞の当時の賞状

内閣総理大臣賞 賞状

受賞当時の新聞記事

フォトギャラリーはこちらから

「愛」と「美」と「生きることの素晴らしさ」を伝え続ける堤写真館の仲間たち

あなたの記念日が、より素晴らしい心に残る一生の思い出の日となるように全力投球。
私たちをよろしくお願いします!

  • AKO TSUTSUMI [Photographer]
  • Nobue Tsuru [Coordinator]
  • HARUMI KOMEDA [Coordinator]
  • SATORU IKEJIRI [Photographer]
  • FUMIKA WASAI [Photographer]
  • KIYONO FUJIMOTO [Costume coordinator]
  • KATSUHIKO YAMASAKI [Photographer]
  • YUKI KURANAGA [Photographer]